お金にならないお金の話

お金は使うと無くなる、これを公理とする

お金は整数

お金は整数

数学が嫌いな人は多いと思うが、誰もが知っている整数も意外とやっかいな概念である。日常使う数字は自然数である。りんごが3個とみかんが5個、本が3冊、千円札が6枚、ものを数える場合は自然数を使う。「1万円札をゼロ枚持っている」ではなく、「1万円札を持っていない」と表現する。ゼロは自然数ではない。温度はマイナス18度、氷点下3度のようにマイナス表記をする。温度は状態を示す特性値(プロパティ、パラメータ)であり、数量を示す値でないため、プラスとマイナスが連続しても違和感が無い。しかし、温度は小数点もあるので整数ではなく実数である。このように、日常で整数を使う用途は思いつかない。

マージャンで持ち点を数える時、持ち点が無くなると連続的にマイナス点とすれば、整数である。しかし、持ち点(点棒)が無くなった時点でゲーム終了とすれば、自然数である。ギャンブルは手持ちがなくなった時点で終了する、これも自然数である。

整数は、日常的な用途がなく、数学上の概念であることがわかる。お金についても、貯金が50万円あり、ローンが100万円ある、と表現する。合算してマイナス50万円持っているとは表現しない。ところが、銀行は違う。銀行預金はプラスであり、貸付金はマイナスであり、貯金と借金は整数として連続的に取り扱っているように見える。あなたが銀行に100万円預けたとき、1万円札が100枚保管されるのではない、あなたの預金残高が100万円と記録されるのである。これは、あなたのパラメータ「預金残高」が100万円であることを示す整数なのである。

お金が整数だと仮定すると、お金の解釈が整理され、銀行の預金と貸付金がお金の本体であることになる。お金は1枚、2枚と数える数量ではなく、人や企業、組織、物などに付属する特性値(プロパティ、パラメータ)となる。この特性値を集計し、合計がゼロであることを示したものが貸借対照表になる。貸借対照表が、お金の本体であり、お金の全てと解釈できる。

紙幣は自然数であり、銀行預金は整数である。整数は、数学上の概念であり、日常的な感覚で理解することは難しい。同様に、銀行預金がお金の本体であると理解することは難しい。また、貸借対照表がお金であることを理解することも難しい。難しいが、経済が生物階層から独立した階層であることを理解するために、重要な要素である。

経済が独立した階層であることは証明されていない。経済階層の存在を主張する人も少ないかもしれない。しかし、現実の制度や行政は、経済が独立階層であることを示している。赤字国債は生物活動の労働と無関係である、貸借対照表も自然と無関係である。減価償却経理上の整合性を認めるが、自然現象の損耗だと考えると混乱する。経済運営、金勘定を見れば、経済が独立階層であることは明白である。

一方、人間は自然の一部であり、人間が経済を利用するのであり、人間が経済に利用されるのではない。経済には人間の労働が不可欠であり、経済は人間の活動の一部である。よって経済は自然の一部である。このように、経済が独立した階層である必要は無い。もし、経済階層が独立した保存則を持つならば、経済的価値は経済階層で生まれ、自然の一部である労働は経済的価値と関連性がなくなる。これは、不条理である。

お金は整数、これを認めることは危険であるが、考察はおもしろい。