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残留中和抗体

残留中和抗体

日本のコロナウイルス感染の変動から、ウイルスは8週間の感染拡大のあと収束する様子を観察した。これは、世界的に観察され、2ヶ月周期説、120日周期説(2ヶ月上昇2ヶ月下降)と呼ばれている。ウイルスは数ヶ月の拡大のあと収束するのは常識である、と語る学者も居る。しかし、防疫政策で周期説が議論されることは無い。誰が見ても周期性を感じるが、学問として議論されることはないだろう。

防疫政策とは、人間の行動によって感染を制御できることを前提としている。ウイルスの都合で感染周期が決まるのならば、人間の対応は嵐が過ぎるのを待つしかない。それならば、予防に加え、被害の予測と対策に重点を置けば良いと考えるだろうが、問題はもっと深くにある。

コロナウイルスの感染経路は飛沫感染接触感染か、議論が収束しない。どちらも説得力があり、どちらも説明できない例外現象がある。議論は白熱し、対策案は多岐に渡り、対策は拡大する。関係者は誰もが利益を得る。真理の追究は停滞し、感染対策事業が既得権益として定着する。専門家は経済原理に絡め取られ、学会は繁栄するが、真理にたどり着けなくなる。感染の本質が感染経路以外の因子である可能性もあるが、もはや感染学の視点からウイルスの自主性を観察することは難しい。

問題の深刻さが分かるだろうか。感染学とは、防疫を目的とする学問であり、評価基準も感染の抑制である。今までの研究成果は、人間の与える刺激に対するウイルスの反応である。ウイルスの自主的行動は記録されていない。周期説を受け入れるには、感染学の全てを見直す必要がある。周期説のようなウイルスの自主的行動の解明には、医学と距離を置き、視点を変えた研究が必要であろう。

ウイルスに感染すると体内でウイルスが増加し、その後で中和抗体が生産される。中和抗体の増加が始まると体内のウイルス量は減少していく。ウイルスが減少しても中和抗体の増加は継続し、ウイルスが検出されなくても中和抗体量は維持される。ここで、中和抗体量が維持される目的を考察する。現在、我々は抗菌物質を薬として服用する。この時、病原菌が死滅する期間の服用を求められる。不完全な殺菌では、菌の変異を促し、耐性菌の反撃を受ける可能性が有るからである。ウイルスも同様であると考えると、細胞内に身を潜めているウイルスを殲滅する為に、中和抗体の血中濃度を維持していると類推できる。中和抗体の主目的は、ウイルスの進入を防ぐことではなく、細胞内の残留ウイルスの殲滅であると推論できる。

すると、抗菌物質とワクチンの原理が真逆であることに気付く。抗菌物質を乱用すると耐性菌が現れるため、健康時は使用せず、病気の時に集中的に投与する。ワクチンは健康時に抗体量を維持する為に利用し、発症時には接種しない。これは、中和抗体の主任務がウイルスの進入防御であると考えるからである。中和抗体の主任務は、残存ウイルスの殲滅なのか、進入ウイルスの防御なのか。ワクチン産業が発達した現在、この疑問を追及することは難しい。

ワクチン接種の議論を聞くと、中和抗体量と感染確率が相関するような印象を受ける。しかし、そのような関係は確認されていない。新種のウイルスに対する中和抗体は、誰もが一様に持っていない。それでも感染する人と感染しない人がいる。この事実から、中和抗体量と感染確率が相関しないことは明らかである。ワクチンの評価を中和抗体量で行うことから見直す必要が有る。

ルールを調整してゲームを有利に運ぶ、この手法に日本人は弱い。新型ワクチンが薬にも毒にもならないことを、今は願うことしかできない。経済は独立した階層を形成し、独立した保存則を持つ。自然現象を経済に利用することは可能であるが、経済原理で自然を制御することはできない。遠回りだが、当たり前のことを知る必要がある。