お金にならないお金の話

お金は使うと無くなる、これを公理とする

見えない現実

見えない現実

2022年2月3月の死亡数が多すぎると話題となった。日本の超過および過少死亡数ダッシュボードを見ると明確な超過がある。

https://exdeaths-japan.org/graph/weekly/

週ごとの死亡数には一年周期の増減があり、季節あるいは気温との関係が深いことがわかる。そこで前年の死亡数との差を取ることにより、季節以外の要因による増減を得ることができる。グラフで示すように第9週(3月初め)をピークとする死亡数の増加がみられる。

 この時期はちょうど3回目のワクチン接種が進められた期間であるので、3回目のワクチン接種数と死亡数前年差分でグラフを作成する。横軸は1週間毎の3回目接種数、縦軸は1週間毎の死亡数前年差分である。

全体的に右肩上がりの傾向が見える。但し、接種数が200万回以下の部分だけを見ると、明確な傾向は見えない。これは、様々な死亡要因と接種数の影響が区別できない状態と思われる。そこで、接種数が100万回以下のデータを除外し、一次回帰曲線を求めると勾配係数は0.001、千分の一となる。

これは、千回の接種で一人が死亡することを示す。もちろん接種と死亡の直接的な関係や因果関係を示すものではないが、数式の意味は千回と一人が対応していることを示す。ワクチンは本来、人体にとって毒であり、それ故に利用を厳しく制限している。接種数と死亡数が正の相関を持つことは異常なことではなく、当然の結果である。一日20万回、一週間で140万回程度では相関は見られないが、一日100万回、一週間で700万回の接種によって明確な正の相関が示された。治験で予測されているのであれば情報を開示すべきであるし、治験で予測できないのであれば治験の方法を変える必要がある。

この千分の一とは、3回目接種の致死率が0.1%とも言える。0.1%の致死率はオミクロン株コロナ感染症と同程度である。感染者が人口の10%程度であるのに対し、3回目接種者は人口の60%であるから、感染症死亡者の6倍の人が3回目のワクチンによって死亡したことになる。当然、即刻中止すべきであるが、4回目、5回目と継続されている。これは、この結果が見えないからである。ここでの考察はワクチンが毒であることを前提としているが、ウイルスが悪でワクチンが善であると仮定すると、グラフは意味不明であり、相関を見つけることはできない。何か別の要因があり、この傾向は偶然であると考える。見ないふりではなく、実際に見えない。

始めに言葉、ワクチンの致死率。次に物語、ワクチンは毒である。最後に現実、ワクチン接種と死亡数は相関する、が明らかとなる。現状、ワクチンは救世主と認識されているので、比例関係は見えない、現実は見えない。

私は、お金について考える過程で、見えない現実が沢山あることに気付いた。経済とは物語であり、自然現象を覆う仮想現実だと理解している。ワクチンも物語のひとつだと考える。お金と同様に、ワクチンの現実を明らかにすることは難しいだろう。否、お金を説明するよりは簡単であろう。

 

 

魔法の杖

魔法の杖

誰もが魔力を持つこの世界では、訓練や教育によって魔力を高めることができる。しかし、実際に強力な魔法を発現させるには、魔法の杖が必要である。簡単な魔法であれば、魔法の杖の使い方を覚えることで、誰でも訓練なしに魔法を発現できる。魔法の杖を使わずに魔法を利用する人はほとんど居ない。

魔力値100の杖を使いこなすと魔力値100の魔導士として認められる。この魔導士が発現する魔力は、杖の魔力100と魔導士の魔力100の合計で、魔力値200となる。もしこの魔導士が杖なしに魔法を使ったとすると、その魔力値は10にも達しない。一般的な教育を受けた人の魔力値は1であり、どんなに優れた魔導士でも、杖なしでは凡人の10倍の魔力値も発現できない。そして、魔力値100の杖は凡人でも容易に使うことができる。現在、よく使われる杖の魔力値は1万程度である。もはや、魔導士の能力は、杖の使い方の習得で決まる。鍛錬による自身の魔力値上昇は、社会的な意味を持たない。まずは、どのようにしてこれほど高い魔力値が杖に与えられたかを説明したい。

魔力値100の杖を2本用意する。一本を手に持ち、もう一本の杖に魔力増強の魔法をかける。そうすると、魔法の力は杖の100と魔導士の100の合計で200であり、魔力増強された杖の魔力値は元の100にこの200を加えた300となる。魔力値100の杖2本から魔力値300の杖が1本作られる。このように低魔力の杖から高魔力の杖を作成すると、低魔力の杖の合計よりも強力な杖ができる。この作業の繰り返しで杖は強化される。

強力な魔力を必要とする作業では、予め杖を強化したほうが効率的である。但し、強化魔法の技術は開発する必要があり、研究に魔力を使うよりも、低魔力の杖を何本も使う方が安易な場合が多い。例えば大きな橋を作る場合、弱い魔法では何本もの橋脚を川の中に据える必要があるが、強い魔法であれば橋脚のない橋を作ることも可能となる。橋脚の設置場所が確保できる場合は弱い魔法を使い、橋脚の設置が難しい場合は研究により強化魔法を開発してから強い魔法を使用する。

研究開発の成果が広く利用され、魔力値1万程度の杖が主流となっている。もっと強力な杖も存在するが、多くの魔導士の協調が必要な場合が多く、習得も難しい。

次に、魔導士の報酬について説明する。すべての作業に魔導が利用されるが、農作物や家畜の成長自体は自然の力に頼る必要がある。時間を操る魔導が見つかれば、成長を速めることも可能であろうが、そのような魔導理論は想像もできない。このようなことから、魔導士の報酬も食料との関連で話す。

野生の鹿を仕留めるのに魔力値10万を消耗すると、この鹿の価格は10万円となる。この時使用する杖の魔力値は5万で、魔導士の消耗魔力値は5万となる。魔力値5万の杖を買うには5万円が必要であり、魔導士の報酬は10万円であるが、収入としては半分の5万円となる。ここから、魔力値5万の杖は5万円の収入をもたらす価値があることが分かる。農作物も同じで、育てるために消耗した魔力値が報酬となり、報酬の半分が杖の維持費で、残り半分が収入である。

このような関係は杖の扱いを習熟した魔導士の場合であって、未熟な魔導士の生産物は安く売られる。廉価な商品は使い捨てにされ、杖の強化魔法には利用されない。また、特別な外見の杖は高額な値が付くこともあるが、この場合もコレクターアイテムであって強化魔法には利用されない。杖の製作に関しては、品質が重要であり、魔力値と価格の一致が求められる。杖の能力と価格の関係は、杖の製作に使われた魔力値がそのまま杖の商品価格となり、同時に杖を使用した場合の収入と杖の魔力値も一致する。杖に限定すると、魔力量と商品価値と利用価値が一致する。一方で、生産された農作物などの値段は、消耗した魔力値が基準となるものの、人気などに影響され変動する。

現在、勇者の育成は、国家機関による召喚と国宝級の杖の貸与が主流となっている。選抜や公募による選考はほとんどない。これも、国力を反映した強大な魔力値を示す杖が勇者の魔力を決定することに理由がある。勇者に求められる資質は“勇者らしさ”であり、これには召喚の儀式が最も有効である。

五公五民

五公五民

太閤は二公一民を基本とし、徳川幕府は四公六民としたが、享保の改革で五公五民に変更した。米の生産量である石高は、現在の国内総生産に相当する。サラリーマンの年収とは異なる概念であり、現在の税率と考えてはいけない。幕府の役割は現在の政府とは少し違う、幕府や藩主は土地を管理する資本家であり、行政を行う政府でもある。小作人は労働者であり現在のサラリーマンと同じである。公とは資本家と政府の取り分で、民とは労働者の取り分と考えられ、五公五民は労働分配率に近い概念である。

残念ながら、五公五民が労働分配率であるとする文献は見つからない。古代ギリシャ農奴の納付率も五割とされる。こちらも文献は見つからない。現在日本の労働分配率は50%であり、これは資料がある。古今東西労働分配率は五割のようである。

労働分配率が五割であれば、残り五割は資本に対する分配であり、資本の維持費用の割合である。これは資本家の贅沢の原資ではなく、経済を維持するための必要経費である。即ち、生産量の半分が減価償却として消耗されることを示し、減価償却費の二倍が生産額になっているとも解釈できる。補足として、現在の経済統計では政府支出とそれに伴う消費も加算されるので、投資の比率が不明瞭であるが、民間の投資と消費の割合は50対50であり、工業製品の生産財消費財の比率も50対50である。

五公五民に戻り、少し考察を加えたい。江戸時代の農業人口は8割であり、その他が2割であった。五公をこの2割が食べていたと考えると、農民は五民/8割でその他は五公/2割であるから、武士や商人は農民の4倍の米を食べる必要がある。農民が2000kcalの食事であれば、武士や商人は8000kcal食べる必要がある。五公五民を米の分配率と考えることは無理がある。また、人口の8割が農業生産に専従していたと考えると、治水、開墾や道路整備など公共工事を行う作業員が不在となる。農民は副業として土木作業を行い、報酬を受けていたと推測できる。五公五民は税率でも食料分配率でもない、資本と労働の分配比率と考えられる。

理屈はともかく、労働分配率と資本分配率は共に50%に収斂する。奴隷制経済、幕藩経済、資本主義経済、どのような制度であっても、労働と資本の分配は50%で安定する。別の視点では、労働分配率を50%に維持できる制度が優れた経済システムと考えられる。江戸幕府の場合、工業、商業の発展に対し、米を基準とした労働分配率の制度が対応できず、苦労したと想像される。工業が中心の経済では、生産設備を重視する資本主義が適しており、実際労働分配率は50%で安定している。この先、サービスや経験産業の需要が増加し、工業生産の比率が低下する場合、経済制度の変更も必要となる。

五公五民は、農業経済に適したマクロ経済政策であり、太閤検地が日本経済の安定と発展をもたらした。戦国時代は国力を競い合う期間であり、そこで勝ち残った政策が太閤検地であり、300年継続する経済制度を作り出した。労働分配率50%の理屈については改めて考えたい。

回転寿しの皿

回転寿しの皿

経済に関して、ネットの検索結果と私の考察結果が全く異なるので混乱していたが、スミスさんが富の定義から考察を始めるのを見て、安心できた。スミスさんに感謝を述べたい。経済が“定義された富”の獲得手段であり、経済が人生の全てでないことを示してくれた。

どうやら経済は単純なルールのゲームのようである。複雑だと思う原因は、生活の全てが経済のルールに従う、との思い込みにある。経済はゲームであり、ルールはゲームの中だけで機能し、生活の多くはゲームの外にある。但し、ゲーム内での成功や失敗は生活に影響を与える。反対に生活の多くはゲームに影響を与えない。ゲームは仮想現実であるが、現実よりも重要な面がある。

ゲームの目的は付加価値を消費すること。ゲームにおける富は付加価値であり、富を獲得することがゲームの目的である。ゲームの目的は単純、付加価値を獲得すること。しかし、獲得するためには、初めに労働により付加価値を作る必要がある。次に市場で販売してお金に換える。最後に市場でお金と交換に付加価値を獲得する。このような経済活動は、社会人ならば常識である。しかし、生産には隠された関係式がある。生産は付加価値を作り出すことであるが、何も無いところから作るのではなく、必ず既にある付加価値を利用する。創るのではなく増殖である。この増殖は簡単な関係式で決まり、消耗した付加価値の2倍の付加価値を作る。関係式は、生産=減価償却×2となる。

市場を利用しないゲームは単純で、自分が欲しいものを生産で増やし、増えた分だけを消費すれば良い。しかし、自分の欲しいものをすべて自分で生産することは不可能である。むしろ、一人で生産できる付加価値は皆無である。一例を示すと、日本では古く黒曜石の矢尻が利用されている。この黒曜石は交易品であり、自身で採取することはない。また、矢尻の製作も集落内の分業である。狩猟生活であっても、他者の生産した付加価値が必要となる。人が道具を使い始めた時からゲームは始まり、ゲームには市場取引(分業)が必須である。

ゲームをたとえ話で考えると、回転寿しで説明することができる。付加価値は商品を乗せる皿であり、市場は回転するレーンである。ゲームのルールはレーン上の皿の増減に適応され、皿の上の商品には無関心である。生産ではレーンから皿を取り出し、取り出した皿の2倍の皿に商品を乗せレーンに戻す、この時増えた皿の引換券が発行される。消費ではレーンから皿を取り出し、皿の上の商品を獲得する、この時引換券と皿が同時に回収される。誰でも生産と消費に参加できるが、生産と消費では席が異なり、参加の度に生産であるか消費であるかを宣言する必要がある。生産では無条件に引換券が発行されるが、売れ残りは自身で消費する必要がある。他人が求める商品を乗せないと赤字となり、ゲームから退場となる。消費では必ず引換券が必要である。消費はどの皿を選ぶかの選択であり、限られた手持ちの引換券で、自分の求める商品を選ぶ。生産側から見るとすべての商品が競争相手となる。また、レーン上の皿が富の原資となるが、レーン上の皿を増やすためには、消費を控え、引換券を保管する必要がある。即ち、ゲームを拡大するには引換券の貯蓄が必要である。

ゲームは回転するレーン(市場)と皿(付加価値)が全てであり、皿の上の物品、消費後の物品、生産に必要な資源や労働はすべてゲームのルールの外にある。ゲーム自体は現実と独立した閉じたシステムであり、仮想現実である。但し、皿とその上の物品が結合することで、現実と結び付けられる。消費者の認識は皿の上の商品と引換券の交換であるが、ゲームのルールは皿と引換券の同時回収である。服を買う時に店員が値札を切り取ると思うが、同時回収のルールを明示的に表現している。

物品の動きをゲームのルールで説明しようとすると、混乱してしまう。物品の動きは参加者の欲望であるから、ゲームとは異なる法則がある。生活においてはこの物品の動きが重要であるが、ゲームのルールとは無関係である。経済では商品の動きも重要であるが、経済のルールは皿の部分、付加価値にのみ作用する。経済は物品と付加価値が重なった拡張現実であり、経済のルールは付加価値を制御している。

市場を回転するレーンに例えることは、市場が交換の場ではないことを示す。生産で商品を市場に供給し、消費で商品を市場から取り出す。生産と消費は逐次操作であり、同時性の交換操作とは異なる。価格の決定は生産者が行い、消費者は購入の可否を判断する。さらに、生産者は、生産=減価償却×2で商品の価格を決定するので、商品価格は減価償却から確定的に自動的に算出される。

このゲームの特徴は、プレーヤの目的を変換するところにある。欲しいものを求める利己を達成するために、他人の求めるものを生産する利他が必要であり、さらに富を増やすには倹約による引換券の貯蓄も必要である。結局、他人に尽くすことが自身に恩恵をもたらす。ゲームには利潤の概念もない、他人が求めるものを作ると生産と消費のサイクルが早まり、自動的に人、モノ、金が集まる。この生産速度の上昇を会計期間で区切ると、利潤として認識される。生産で利用した皿の倍の皿を用意し、その上に商品を乗せることで、価格や人件費は自動的に決まり、人気商品は繫栄し、不要な商品は衰退する。

回転寿しモデルは会社経営の常識を反映していると思う。経済を説明するモデルとして、回転寿し、仮想現実、拡張現実などを利用する必要があるとすれば、これまでの経済学の混乱も容認するしかない。日本文化が広がることで、経済の理解が深まるかもしれない。経済が生産と消費の二段階の操作であり、交換取引でないとする考えは、需要と供給の経済学を修正する。需要と供給による価格調節は自然価格(=減価償却費×2)を求めるための試行錯誤であり、価格を求める解法のひとつであり、価格を決める法則ではない。

スミスの資本主義

スミスの資本主義

アダムスミスの解説書を読むと、貨幣原理主義である重商主義を批判する形で、生産設備の蓄積が大切であることを主張していることがわかる。スミスの資本主義は設備資本主義である。

経済学の父と呼ばれるスミスの主張は設備資本主義であるが、そこから生まれたのは、共産主義(共有資本主義)と貨幣資本主義の対立であり、共産主義の敗北によって、貨幣資本主義をより先鋭化させた金融資本主義が成長している。せっかく、スミスが豊かになるための経済原則を示してくれたのに、原則を無視したイデオロギー論争になってしまった。

設備資本は誰が所有していようと国民全体に恩恵を与えるのであるから、設備資本の蓄積を促すシステムが良い経済システムである。一つの答えは自由市場であるが、自由市場では参加者全員がプレーヤであり、政府も貴族も特権がなくなる。管理者が居ないことが良い経済システムの条件であり、フェアプレイに基づいた“見えざる手”に委ねることが最良である。

当然、特権を享受したい人は、策を練り、思想を展開して、いかさま(チート)を仕掛けてくる。一例として、日本政府は破綻しないのだから赤字国債は問題ない、との主張がある。日本政府もプレーヤであり、収入以上の支出は禁止である。企業は赤字が継続すると破綻する、これがルール。赤字だと破綻するから自由競争が成立する。日本政府は破綻しない、だから赤字国債は禁止なのである。日本政府は特別なプレーヤであり、破綻しない。日本政府が基本ルールである支出限界を守るためには、赤字国債を自ら禁じる必要がある。ちなみに、建設国債は償還が可能であり、企業の借り入れと同様に問題ない。

経済の基本ルールは3つ、消費限界、利益追求、自由市場。消費限界は収入以上の消費の禁止、利益追求は低コスト高付加価値の追求、自由市場は市場の自由競争を確保すること。そして経済の目的は、生産された付加価値を消費すること。

労働価値と商品価値

労働価値と商品価値

お金を稼ぐために生きている、当たり前と思う人もいれば違和感を抱く人もいる。それは経済が仮想現実だからである。映画マトリックスを見たことがあるならば分かるだろう、仮想現実の中で生きていると、それが世界のすべてであり、仮想現実であることに気付くことはない。

経済は人間が強制参加しているゲームだと考えると、経済を簡単に理解できる。商品には経済的価値(交換価値)と人を満足させる価値(効用価値)があるとされるが、両者の関係が確定されていない。これは当然と言える、交換価値はゲーム内の価値であり、効用価値は動物として生きる人間にとっての価値である。交換価値はゲームのルールで決まるので計算可能である。効用価値は人間の欲であるから、数値化する学問が無い。

労働にも同様の混乱がある。日本の労働は道であり、武道と同様に極めるもの、生きる意味である。アングロサクソンの労働は苦役であり、自由を奪う罰とされる。ゲームにおける労働は価値を生み出す源泉であり、価値として数値化が可能となる。経済は仮想現実であり、ゲームであり、数値化された富と豊かさがある。

商品価値はどのように決まるのか。ゲームの中の計算である、誰でも納得する簡単な計算で決まる。基本ルールとして労働を伴う生産活動によって生産されたものが生産物であり、生産物は商品として市場で販売される。商品は労働によって生産されるのであるから、商品価値は労働価値から計算される。それでは労働価値はどうやって決めるのか。労働価値は使用した道具の商品価値から計算する。整理すると、商品価値は労働価値から計算し、労働価値は商品価値から計算する。ゲーム内で完結した計算であり、自然とは独立した仮想現実を構築している。

これでは循環計算であり、値が確定できない。経済学はここで迷走している。投下労働価値説、支配労働価値説、剰余労働価値説、効用価値説、他にもあると思うが、イデオロギー論争が中心となり、結論は保留されている。それでも、実際の経済は進行しており、ゲーム内の計算は実行されている。商品は労働によって生産され、生産された商品を道具として労働を行い、新たな商品を生産する。これは循環ではなく、逐次作業である。生産の度に、使用した道具から労働価値を計算し、計算した労働価値から商品価値を計算する。すべて逐次計算であり、循環計算は発生しない。

道具と呼べる生産物が無いゲーム序盤、生産物の価値は労働時間で決まる。道具αの生産に8日を要したとするとαの価値は8工数となる。αは4日間の使用で壊れる場合、αを使う労働価値は8工数/4日で2工数となる。労働価値は利用した道具の商品価値で決まる。次に、αを使った4日の労働で道具βを作る。βの価値は、αの価値8工数×(4/4日)=8工数と、労働価値2工数×4日=8工数の合計、16工数となる。道具を使う生産では、商品価値は道具の消耗価値と労働価値の合計で計算する。この計算で商品価値は過去の労働価値の積算となる。消耗した商品価値も元を辿れば労働価値である。βの製作時間は、αの生産8日とβの生産4日で12日であり、βの価値16工数より短くなる。このように道具を利用すると、労働時間と商品価値は一致しない、労働価値と商品価値が常に一致する。

生産設備が十分整備された状態では、労働価値は生産設備の消耗価値、即ち減価償却となる。商品価値は減価償却と労働価値の合計となるが、減価償却は過去の労働価値の積算であるから、商品価値は労働価値と一致する。

価値の根源は、

  商品価値=労働時間

道具を使う生産では、

  労働価値=道具の消耗価値

  商品価値=道具の消耗価値+労働価値

分業生産では、

  商品価格=減価償却費+人件費

  人件費=生産設備の消耗価値

     =減価償却

このように、労働価値は生産設備を介して逐次計算され、生産設備の蓄積が労働価値を高める。サービス産業や政府支出のようにすべて消費される生産は、労働価値に影響を与えることはできない。商品価値=労働時間から始まり、限りなく続けられる生産設備の蓄積により、減価償却費=人件費が確立している。

富と倹約

富と倹約

富とは豊かさであり、豊かさとは付加価値の消費である。単純に消費額が豊かさである。スミスを引用すると「あらゆる人は、その人が人間生活の必需品・便益品および娯楽品をどの程度に享受できるかに応じて、富んでいたり、まずしかったりするのである。」、どれだけお金を使うかが豊かさである。

経済は富を求めるゲームだと考えられる。あらゆる人の公平を確保しながら、富を求めるゲームである。人生について或いは人生において何を求めるのか、多様な答えがあるだろう。それでも、野生動物から経済を営む動物へと推移した時から、経済の中で生きることが要求されている。一旦、豊かさを消費額と定義すれば、経済はゲームとなり、プレーヤとして経済に参加できる。経済は人生のすべてではない、ゲームである。

ゲームの目的は富を消費すること、富は創りだすことが可能であり、消費される富を創り続けることが求められる。注意点は、富の生産量を増やす必要はないことである。僅かな富で満足しても問題ない。ゲームの基本ルールは、消費上限、利益追求、自由市場である。消費上限とは収入以上の消費の禁止。利益追求とは低コスト高付加価値の追求。自由市場とは自由競争の市場での取引。要するにいかさま(チート)をしないことである。

富は労働によって生産されるが、労働で使用する道具が重要である。使用する道具によって生産額が変わる。道具もすべて生産する必要があるが、既にある道具を購入したり、借りたりできる。ゲームは数万年間継続しており、現在は分業による大量生産が実現され、新規参加者は分業の一端を担当する。生産工程は細分化され、各工程に特化した生産設備が準備されている。富を獲得するには、生産設備の維持とそこから生産される富の販売が必要である。販売で得た利益が収入であり、収入で求める富を購入する。分業の細分化により、求める富を自身で生産することは不可能である。

分業による量産経済において富の消費を増やす方法は、収入を増やすことであり、売れる商品の開発と生産量の増加が必要となる。自分を豊かにするには、まず他人の求める富を増産する必要があり、増産には設備の増強が必要であるから、自分の消費を抑えて設備投資を行う必要がある。結局、消費を増やすことが目的であるが、それには他人の豊かさの為に倹約する必要がある。倹約を重ねて、他人が求める富を生産することで、初めて自分に豊かさが訪れるのである。労働と倹約が富の源泉とも言える。

全てのプレーヤがチートを使わずゲームを楽しめば、労働と倹約も苦ではない、確実に豊かさが訪れる。しかし、チートで豊かさを獲得したプレーヤは労働と倹約を苦痛や罰と感じるだろう。さらに、ルールを守ることが愚かだと思うのではないだろうか。奴隷制度、植民地制度、共産主義、金融資本主義、グローバル主義、これらは労働以外の方法で富を獲得する点でチート行為であろう。チート行為が横行すると、ゲーム自体が廃れてしまう。