お金にならないお金の話

お金は使うと無くなる、これを公理とする

労働価値と商品価値

労働価値と商品価値

お金を稼ぐために生きている、当たり前と思う人もいれば違和感を抱く人もいる。それは経済が仮想現実だからである。映画マトリックスを見たことがあるならば分かるだろう、仮想現実の中で生きていると、それが世界のすべてであり、仮想現実であることに気付くことはない。

経済は人間が強制参加しているゲームだと考えると、経済を簡単に理解できる。商品には経済的価値(交換価値)と人を満足させる価値(効用価値)があるとされるが、両者の関係が確定されていない。これは当然と言える、交換価値はゲーム内の価値であり、効用価値は動物として生きる人間にとっての価値である。交換価値はゲームのルールで決まるので計算可能である。効用価値は人間の欲であるから、数値化する学問が無い。

労働にも同様の混乱がある。日本の労働は道であり、武道と同様に極めるもの、生きる意味である。アングロサクソンの労働は苦役であり、自由を奪う罰とされる。ゲームにおける労働は価値を生み出す源泉であり、価値として数値化が可能となる。経済は仮想現実であり、ゲームであり、数値化された富と豊かさがある。

商品価値はどのように決まるのか。ゲームの中の計算である、誰でも納得する簡単な計算で決まる。基本ルールとして労働を伴う生産活動によって生産されたものが生産物であり、生産物は商品として市場で販売される。商品は労働によって生産されるのであるから、商品価値は労働価値から計算される。それでは労働価値はどうやって決めるのか。労働価値は使用した道具の商品価値から計算する。整理すると、商品価値は労働価値から計算し、労働価値は商品価値から計算する。ゲーム内で完結した計算であり、自然とは独立した仮想現実を構築している。

これでは循環計算であり、値が確定できない。経済学はここで迷走している。投下労働価値説、支配労働価値説、剰余労働価値説、効用価値説、他にもあると思うが、イデオロギー論争が中心となり、結論は保留されている。それでも、実際の経済は進行しており、ゲーム内の計算は実行されている。商品は労働によって生産され、生産された商品を道具として労働を行い、新たな商品を生産する。これは循環ではなく、逐次作業である。生産の度に、使用した道具から労働価値を計算し、計算した労働価値から商品価値を計算する。すべて逐次計算であり、循環計算は発生しない。

道具と呼べる生産物が無いゲーム序盤、生産物の価値は労働時間で決まる。道具αの生産に8日を要したとするとαの価値は8工数となる。αは4日間の使用で壊れる場合、αを使う労働価値は8工数/4日で2工数となる。労働価値は利用した道具の商品価値で決まる。次に、αを使った4日の労働で道具βを作る。βの価値は、αの価値8工数×(4/4日)=8工数と、労働価値2工数×4日=8工数の合計、16工数となる。道具を使う生産では、商品価値は道具の消耗価値と労働価値の合計で計算する。この計算で商品価値は過去の労働価値の積算となる。消耗した商品価値も元を辿れば労働価値である。βの製作時間は、αの生産8日とβの生産4日で12日であり、βの価値16工数より短くなる。このように道具を利用すると、労働時間と商品価値は一致しない、労働価値と商品価値が常に一致する。

生産設備が十分整備された状態では、労働価値は生産設備の消耗価値、即ち減価償却となる。商品価値は減価償却と労働価値の合計となるが、減価償却は過去の労働価値の積算であるから、商品価値は労働価値と一致する。

価値の根源は、

  商品価値=労働時間

道具を使う生産では、

  労働価値=道具の消耗価値

  商品価値=道具の消耗価値+労働価値

分業生産では、

  商品価格=減価償却費+人件費

  人件費=生産設備の消耗価値

     =減価償却

このように、労働価値は生産設備を介して逐次計算され、生産設備の蓄積が労働価値を高める。サービス産業や政府支出のようにすべて消費される生産は、労働価値に影響を与えることはできない。商品価値=労働時間から始まり、限りなく続けられる生産設備の蓄積により、減価償却費=人件費が確立している。