お金にならないお金の話

お金は使うと無くなる、これを公理とする

富と倹約

富と倹約

富とは豊かさであり、豊かさとは付加価値の消費である。単純に消費額が豊かさである。スミスを引用すると「あらゆる人は、その人が人間生活の必需品・便益品および娯楽品をどの程度に享受できるかに応じて、富んでいたり、まずしかったりするのである。」、どれだけお金を使うかが豊かさである。

経済は富を求めるゲームだと考えられる。あらゆる人の公平を確保しながら、富を求めるゲームである。人生について或いは人生において何を求めるのか、多様な答えがあるだろう。それでも、野生動物から経済を営む動物へと推移した時から、経済の中で生きることが要求されている。一旦、豊かさを消費額と定義すれば、経済はゲームとなり、プレーヤとして経済に参加できる。経済は人生のすべてではない、ゲームである。

ゲームの目的は富を消費すること、富は創りだすことが可能であり、消費される富を創り続けることが求められる。注意点は、富の生産量を増やす必要はないことである。僅かな富で満足しても問題ない。ゲームの基本ルールは、消費上限、利益追求、自由市場である。消費上限とは収入以上の消費の禁止。利益追求とは低コスト高付加価値の追求。自由市場とは自由競争の市場での取引。要するにいかさま(チート)をしないことである。

富は労働によって生産されるが、労働で使用する道具が重要である。使用する道具によって生産額が変わる。道具もすべて生産する必要があるが、既にある道具を購入したり、借りたりできる。ゲームは数万年間継続しており、現在は分業による大量生産が実現され、新規参加者は分業の一端を担当する。生産工程は細分化され、各工程に特化した生産設備が準備されている。富を獲得するには、生産設備の維持とそこから生産される富の販売が必要である。販売で得た利益が収入であり、収入で求める富を購入する。分業の細分化により、求める富を自身で生産することは不可能である。

分業による量産経済において富の消費を増やす方法は、収入を増やすことであり、売れる商品の開発と生産量の増加が必要となる。自分を豊かにするには、まず他人の求める富を増産する必要があり、増産には設備の増強が必要であるから、自分の消費を抑えて設備投資を行う必要がある。結局、消費を増やすことが目的であるが、それには他人の豊かさの為に倹約する必要がある。倹約を重ねて、他人が求める富を生産することで、初めて自分に豊かさが訪れるのである。労働と倹約が富の源泉とも言える。

全てのプレーヤがチートを使わずゲームを楽しめば、労働と倹約も苦ではない、確実に豊かさが訪れる。しかし、チートで豊かさを獲得したプレーヤは労働と倹約を苦痛や罰と感じるだろう。さらに、ルールを守ることが愚かだと思うのではないだろうか。奴隷制度、植民地制度、共産主義、金融資本主義、グローバル主義、これらは労働以外の方法で富を獲得する点でチート行為であろう。チート行為が横行すると、ゲーム自体が廃れてしまう。