お金にならないお金の話

お金は使うと無くなる、これを公理とする

優先順位

優先順位

欲しいものがあると、情報を集め、値段を調べ、何度も比較して購入商品を決めていく。調べている間にどんどん欲しくなって、後戻り出来なくなる。時として、その商品を使用するよりも買うことの方が楽しい。買いたいものがある時は、お金を貯めることも、お金を稼ぐことも楽しい。同じお金を貯める場合でも、支払の催促に追われては全く楽しくない。強制的な支払は不快である。

お金の支出は、強制の場合は不快であり、自発的な場合は快楽である。自発的な支出は幸福の一種であり、人の生きる目的のひとつと考えることが出来る。よって、お金で最も大事なことは自発的な支出である。その次が強制的な支出の回避、削減であり、即ち貯蓄である。お金を稼ぐことは、支出と貯蓄の手段であろう。労働は他人に対する奉仕であり、商品による他人への幸福の提供であり、金銭的価値ではない。お金の優先順位は、消費、貯蓄、稼ぎであり、その後に公平と搾取の考察、最後に生成と消滅のような原理の理解である。お金は使うと無くなることの理解は、この順序に沿った考察が必要であろうか。

人が幸福になるためには、動物的自我を理性に従わせる必要がある、と主張する書物がある。理性は人に社会性を与える法則であるから、動物的自我と対立する場合もあり、理性と自我の矛盾を抱えたままでは幸福は得られないと主張する。この書物の理性を貨幣、自我を所有物に置き換えると、お金の説明ができる。

人が幸福になるためには、所有物の価値を貨幣価値で示す必要がる。所有物の価値を貨幣で示すことで、個人の価値観を社会に統合することができ、個人の社会への帰属を確定させる。人は周りと同じであることで幸福を得る。優越感を幸福と考えるかもしれないが、優越感と妬みは対であり、疎外感が生まれる。劣等感も優越感も疎外感を発生させ、幸福から外れる。評価基準として貨幣は優れている。

所有物は拡張した自我の具現化である。所有物が傷つけられると腹が立つのは、所有物が自身の延長であることを示している。それでは貨幣はどうか。貨幣は、価値の基準であり、価値の共有である。理性は社会的価値規範に従う作用であるから、貨幣と共通する。所有は自我の具現化拡張であり、貨幣は理性の具現化拡張である。難解な表現であるが、自我を理性に従わせることで社会性が生まれると考えると、自我の拡張である所有物の価値を貨幣で示すことで社会が成立する。お金と社会の親和性の理由とも考えられる。

労働が他人への幸福・効用の提供であると考えると、労働は恩を売る行為であり、貨幣はその証明書である。労働の対価としての賃金は、このように与えた恩の証明書であり、恩を受け取る権利書である。御歳暮や年賀状などを社会全体に広げ、汎用化すると生産・賃金・消費のシステムとなる。社会全体の互酬システムとして貨幣を利用している。

この貨幣による互酬システムと、理性の具現化としての貨幣は同一ではない。交換媒体と評価基準とも表現できる。どちらも生物としての人間の能力を拡張した機能であり、国家や法律などを介することなく、社会システムとして成立し、一元的に機能している。しかし、交換媒体としての貨幣と評価基準としての貨幣は異なる機能である。商品価格は生産コストと関連しているが、ピカソの落札価格は評価でありコストと無関係である。商品価格とピカソの落札価格を統一理論で説明する必要は無い。購入した商品は所有物であり、新品とは異なる中古品として扱われる。

理性と自我の関係が、交換価値と効用価値の関係に対応している。交換価値は互酬システムとしての経済に有効な価値であり、自我の拡張である所有物とは本来無関係である。しかし、社会生活には理性による協調が必要であるように、所有物の価値にも共通化が必要であり、貨幣による価値評価を行う。貨幣の持つふたつの機能、交換媒体と価値基準は由来する原理が異なることから、貨幣を単純な定義で示すことは出来ない。