お金にならないお金の話

お金は使うと無くなる、これを公理とする

「物」理学と「財」理学

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「物」理学と「財」理学

経済学は、経世済民の学問であり、生産活動を通して人間の幸福を目指す学問である。幸福とは、豊かであること、平等であること、自由であること、が含まれる。これは、自然科学における工学に相当する。工学は、自然の摂理を応用し、人間の幸福を追求する学問である。自然科学にはもうひとつ、物理学が存在する。物理学は、自然の理を追求する学問であり、人間の幸福は無関係である。幸福でも絶滅でもどちらでも良い、むしろ、考察から人間を排除することで、自然現象を客観的に観察し、真理を目指す。

普段の買い物では、お金は人から人へ巡り行くものであり、どこから来るのかを考える必要は無い。どこから来るのだろうかと疑問に思うと、信用創造に出会う。私だけでなく、お金の答えを求めると多くの人が信用創造に出会うと思う。そして、混乱する。私の場合は、経済学に不信感を抱いた。しかし、経済学の目的を考えれば、当然である。幸福の追求は、お金の使い方が重要であり、お金の本質は理学の範囲である。物理学と対応させるならば、財理学がお金とは何かを追求する学問である。

工学と物理学の関係を、経済学と財理学に当てはめると、経済学の研究は目的の達成を目指すものであり、始めに目的が存在する。目的が異なる研究は内容も結論も異なる。意見が一致しなくて当然である。人間の幸福を考えるならば、どうしても対象を限定することになる。日本経済の考察に地球の裏側、南米の人々の生活を考慮することは難しい。対象範囲は意図的に明示されないこともあるだろうし、研究者自身が意識しない場合も考えられる。客観的な議論のはずが、前提が異なる研究で、意見の相違が解消されないことも想像出来る。

経済学では、貨幣の考察も人間の幸福が目的である。しかし、お金とは何か、この疑問の結論が人の幸福と関係するとは限らない。お金の疑問は、経済学から外れるのかもしれない。

お金は使うと無くなる、この公理で経済を観察すると、商品と所有物は排他的な存在であると見える。商品と所有物を切り離して観察すると、商品は生産の法則、価格に従い、所有物は感情の法則、価値に従う。商品と所有物は異なる法則に従い、商品が所有物に変化する現象が消費であり、消費が両者の接点である。

財理学は、財の理を追求する学問である。財とは商品のことであり、付加価値、物とサービス、資本ストックが対象である。付随する貨幣も主たる観察対象である。人間の損得、幸福は追求しない。可能ならば考察から人間を排除し、客観性を確保する。財理学では所有物は脇役である、所有物は感情の法則に従い、人の幸福と直結する。ここで必要な学問は、財理学である。