お金にならないお金の話

お金は使うと無くなる、これを公理とする

分業は資本蓄積

分業は資本蓄積

経済の基本ルールは、消費上限、利益追求、自由市場である。消費上限は収入以上の消費を禁止すること。利益追求は低コストと高付加価値を目指すこと。自由市場は自由競争の働く市場で取引を行うこと。この基本ルールの本意は蓄積された資本の保全であり、廉価販売の排斥と商品選択の自由の確保が目的である。市場価格は需要と供給から変動するが、自然価格に収斂する性質を持つ。自然価格は減価償却の2倍である。市場の働きは、個々の商品価格の決定ではなく、消費者の選択を確保し、需要を生産者に伝えることにある。商品価格は、生産者が生産量と利益を指標に決定する。商品のライバルは類似商品ではなく市場すべての商品であり、消費者の選択が商品の需要となり、供給量と価格を左右する。

市場価格が自然価格以下の場合、生産を維持する設備投資ができず供給が減少し、生産コストは上昇する。例えば、設備の故障が頻発し、生産量が減少する。最終的に市場価格は自然価格まで上昇する。あるいは価格上昇が拒否され生産が中止される。自然価格を無視して安易に価格を下げると、設備の不調、廃業となる。

市場価格が自然価格以上の場合、設備投資が可能で、増産によるコスト削減で自然価格は低下し、価格低下と消費量増加が起こる。増産しない場合、高い利益率を享受できるが、ライバル商品にシェアを奪はれる可能性が高まる。

価格の上昇が供給量を増加させる右肩上がりの供給曲線は、職人技の手芸品や限定商品で考えられるが、生産技術の蓄積と分業が進んだ商品では、量産のコスト低減による右肩下がりの供給曲線となる。日本の現状では、ほぼすべての商品が右肩下がりの供給曲線を示す。

経済は基本ルールに従うことで、自然価格近傍での取引が実現し、需要の変化を反映した生産調整を行うことができる。自由競争は、強者が弱者を搾取するような結果ではなく、自然価格による公平な取引を実現する。ところが、この自然価格は売上から原材料費を引いた付加価値の半分だけを賃金とし、付加価値の半分は企業の取り分となる。この企業の取り分は生産設備の維持に必要な費用であり、搾取ではないが、搾取だと扇動することもできる。労働が価値の源泉であり、設備投資は労働価値の搾取であるとの説明は政治的に利用される。正しくは、付加価値は労働によって生み出されるが、付加価値の生産量は減価償却から決定され、投下労働量と付加価値量の相関はない。付加価値=減価償却×2である。

生産で最も重要な要素は、生産の基盤となる生産技術であり、技術を具現化した生産設備である。継続的な生産には生産設備の保全が必要で、資本減耗(減価償却)と同額の資本形成(設備投資)が必要である。増産には生産技術の向上が必要であり、必ず分業化が行われる。分業により生産速度を向上させるのであるが、現在の主流は作業の細分化と機械の導入である。機械の導入は、作業員の削減が目的ではなく、分業の細分化の結果である。人の動きをすべて模倣する機械の導入は、おそらく生産コストを上昇させる。機械化は分業の一環であり、資本蓄積と分業は一対の概念である。

自然価格

自然価格

お金にならないお金の話の要点は、お金を理解しても収入は増えないことにある。貧富の格差とか搾取とか金儲けの極意などとお金の原理は無関係である。サッカーのルールとサッカーで勝つ方法は別であるように、お金の原理と金儲けの方法は異なる。それでもルールを理解し、ルールギリギリのプレーを追求することは勝利に有効である。ラフプレーは、ルール違反だけれども、ゲーム進行上見逃される行為である。経済にも、基本ルールと許容されるルール違反が存在する。実際の経済において、ルール違反が常態化しているならば、基本ルールを確認しラフプレーを排除することも必要である。

経済の基本ルールは3つある。ルール1、収入以上の消費はできない。ルール2、収入の最大化を目指す。ルール3、価格は競争のある市場で決める。

泥棒、詐欺、銀行強盗は当然ルール違反である。株主が企業を所有することはラフプレーに当たる、配当の最大化と企業収入の最大化は一致しない。商売の基本は安く仕入れて高く売ることであるが、労働は仕入れではないので人貸しはラフプレーである。政府の補助金は競争を阻害しラフプレーである。赤字国債は収入以上の支出であり、明確なルール違反である。それでは、銀行の融資はどうであろうか。将来の収入が予測できれば収入の範囲内の支出である、予定の収入が確保できなければ倒産して退場となりルールに適合する。借金を生活費として利用することや税収の見込みのない赤字国債はルール違反である。

このようにラフプレーが横行しているが、大多数のプレーヤはルールに従っている。ルールに従った経済の商品価格は、競争の過程で変動するが、継続的な生産が可能な自然価格に収斂する。経営の経験則としては、付加価値に対する人件費の割合が50%となるような価格に収斂する。継続的な生産が可能となる自然価格の算定を行う。

生産される付加価値は、消費財生産財に区分される。生産財には短期に消耗する中間財と長期間分割消耗する資本財が含まれる。生産財は最終的に必ず消費財の原料として利用され、消費される。逆に、消費財の原料はすべて生産財である。生産財はインフラや工場、中間原料であるから蓄積された資本に相当し、消費財の継続的な生産には資本を維持する必要がある。即ち、消耗した生産財と同量の生産財を生産し、その上で消費財を生産する必要がある。また、消費財を消費するには同額の賃金が必要である。

どうしても説明が煩雑になるが、式にすると以下の関係である。

商品価格=減価償却費+賃金

生産=生産財消費財減価償却費+賃金

生産財減価償却

消費財=賃金

合理的な経済では少量の生産財からできるだけ多くの消費財の生産を目指す(ルール2、収入の最大化)。例えば、商品価格を減価償却費の10倍と設定する。すると、消費者は商品を購入する代わりに、生産財を購入しさらに資本の維持費として同額の追加費用を支払い、自身で組立作業を行うことも可能である。理不尽であるが、生産財消費財として購入するには、2倍の金額を払う必要がある。そうしないと、資本が欠損してしまう。商品価格を減価償却費の2倍とすることで資本の維持が可能で、これが自然価格に相当する。不思議であるが、賃金とは無関係に生産は減価償却費の2倍である。売上から減価償却費を差引くと賃金の原資になるので、結局賃金は減価償却費と同額になる。式で示すと以下のようになる。

生産=減価償却費×2

生産=減価償却費+賃金

減価償却費=賃金

市場価格は需要と供給の均衡で決まり、変動するが、付加価値の目安は減価償却費の2倍である。個人店舗で資本財が不明の場合は、材料費の3倍を価格の目安とする。

経済の基本ルールは、消費上限、利益追求、競争市場である。この基本ルールの本意は蓄積資本の保全である。資本主義では、企業に資本を所有させることで、利益追求と資本保全の両立を目指したが、一部で利益追求が暴走している。共産主義では、資本を共有することで保全を目指したが、資本と権力が癒着し資本保全に失敗した。資本主義でも、企業が国民のものと認識されるならば、個々の利益追求が国民全体の富の増加に繋がる。会社は株主と社員と消費者のものであることが望ましい。

結局、アダムスミス

結局、アダムスミス

お金を考えた結果、生産物の価値は労働自体ではなく労働に伴い消耗する生産設備の価値から決定されることを発見した。これは労働価値説と需給均衡価格を否定することであり、スミスの国富論とも相容れないと思っていたが、スミスは技術の蓄積が生産性を向上させ、賃金も上昇すると主張している。また、市場価格はコストから決まる自然価格に収斂すると主張している。さらに、富とは生産物であり生産物の消費量が豊かさを示すが、倹約による生産物の蓄積が重要であると主張している。これらは以下のように解釈できる。

価値の根源は労働であるが、労働の蓄積である生産設備と分業による生産性が賃金を決める。自然価格はコストと利潤の合計で決まり、市場の需要と供給による価格変動は自然価格を求める試行錯誤の過程である。豊かさ即ち国富は消費であるが、消費の源泉は蓄積された生産物即ち資本ストックである。

私の考えは、スミスを踏襲しているようである。スミスを参考に考察を整理するのも良いかもしれない。

宇宙のお金

宇宙のお金

お金を知る方法として、消去法を利用する。お金で買えないものはお金の価値を持たないと考える。そこから、お金の守備範囲を限定し、お金の価値がどこから来るのかを見つける。

空気はお金で買えない、空気は無料なのでお金の価値を持たない。このようにお金で買えないものを探す。海を回遊するサンマ、山奥の鹿、自生する山菜、これら野生生物は購入できない。他人の持ち物、これは中古市場から買うことができるが、あなたの着衣を売ってほしいと言って買うことはできない。お母さんのお弁当も買うことはできない。これらは、お金に糸目を付けなければ買うことができるだろうが、それは経済活動ではない、お金の暴力である。お金を考える場合、それが経済活動の道具であることを忘れてはいけない。

このように経済活動で買えるモノを限定していくと、“付加価値”に辿り着く。生産活動で生産されたモノが付加価値となり、個人の所有物となると付加価値から除外される。新品の商品と中間生産物が付加価値であり、中古品と自然物は付加価値ではない。お金で買えるモノは付加価値であり、お金の価値は付加価値と対応している。

視点を変えて動物から見ると、すべての付加価値は無価値であり、お金も無価値である。動物にとって経済、付加価値、お金は仮想現実である。経済は人間が創り出した現実であり、生物にとっては仮想現実である。仮想通貨の出現で貨幣の本質が数値であると認識できると思うが、経済自体も人間の創り出した仮想現実だと理解できる。経済は、社会人にとっては現実であるが、生物としての人にとっては仮想現実である。

自然から見て経済が仮想現実ならば、経済は自然現象と無関係に価値を生み出すことができる。経済価値は2種類の方法で生み出される。ひとつは信用創造により預金と貸付金を対生成する。もうひとつは生産により付加価値と賃金を対生成する。ここで、預金を流用して賃金を払うことにより、相互の価値を統合している。現在の通貨経済では、預金がお金の代表である。

このようなお金の特徴は3つある。①付加価値が増えた時にお金も増える、②すでにある付加価値を入手するにはお金を支払う必要がある、③お金の総量は減少することなく増加する。これらの特徴はエントロピーの特徴と同じである。宇宙では新たな情報が生まれるとエントロピーは増加する。外部の情報を取り込むとエントロピーを放出する。宇宙全体のエントロピーは単調増加する。宇宙では情報が価値であり、エントロピーは宇宙のお金に相当する。

なんでもお金で買えると感じるが、それは経済の中で生活しているからであり、自然を見渡すと買えないものも存在し、実は中古品は付加価値ではなく特殊な売買であることもわかる。また、付加価値とお金の関係は、情報とエントロピーの関係と類似していることもわかる。結局、経済は人間が創り出した仮想現実であり、お金はその仮想現実のエントロピーの役割をしている。お金の理解が難しいのはエントロピーが難しいことと対応している。エントロピーは宇宙のお金である。

検索結果と考察結果

検索結果と考察結果

情報遮断・恐怖・解放、これが洗脳の手順とある。情報遮断とは、目隠しをすることではなく、同じ情報を飽和させることで、情報収集を遮断することである。この飽和情報に恐怖を混ぜると、人は恐怖で委縮する。そこに恐怖からの解放が与えられると、人は自身で恐怖を解決したと感じ、高揚し、洗脳が完了する。その後は、与えられた指示を自分の意志として行動する。

霊感商法であれば、閉ざされた空間で、霊の恐怖を繰り返し話し、解決策として壺を提示する。壺は洗脳の手段であり、壺の販売は最終目的ではない。壺の購入は洗脳完了の確認である。

情報収集の方法としてネット検索がある。ネットには膨大な情報が蓄積されているが、検索結果は予め整理され、類似の内容が表示される。20年前であれば検索文字のわずかな変更で検索結果が変化したが、今は検索文字が予測文字に変換されてしまう。ネット検索には情報遮断の機能が組み込まれている。

お金に関する疑問には、経済学の教科書は答えてくれないことが多い。経済学に疑問を感じた場合は、ネットの論文検索が役に立つ。論文は定説に疑問を投げかけることがあり、多様な考えを得られる。一般的なネット検索では教科書的な回答が多い。お金の考察では、検索結果を鵜吞みにしないことも必要である。検索結果と考察結果の差異を整理した。

お金の機能

検索結果:交換、価値蓄積、価値尺度

考察結果:収入以上の消費を禁止する

物価

検索結果:貨幣と商品の交換レート

考察結果:国富を示す指標、資本ストックと類似

インフレ

検索結果:貨幣価値の低下

考察結果:資本ストックの増加、投資の増加

デフレ

検索結果:貨幣価値の上昇

考察結果:資本ストックの減少、投資の減少

景気

検索結果:経済の動向、好景気は物がよく売れる状態

考察結果:債務と債権の不均衡、好景気は金利が低すぎる状態

商品価格

検索結果:需要と供給の均衡で決まる

考察結果:生産で決まる、付加価値=減価償却費×2

賃金

検索結果:労働の需要と供給で決まる

考察結果:減価償却費、投資額で決まる

金利

検索結果:貨幣の需要と供給で決まる

考察結果:インフレ率に連動する、景気を調節する制御因子

価値

検索結果:労働価値が商品価値に転嫁される

考察結果:減価償却により、付加価値と賃金が対生成する

所有権

検索結果:身体の所有権の拡張として、生産物の所有権が発生

考察結果:商品購入により、社会的承認として所有権が発生

経済

検索結果:交換取引の連鎖による利益追求システム

考察結果:生産物の分配を目的とするシステム

減価償却

検索結果:経費と売上を年度に対応させる会計処理

考察結果:経費の本体且つ賃金の原資、付加価値の母体

どうしてこうなった、と言われるだろうか。考察と同じ内容を検索で見つけることができない。

お米はみんなに食べてもらうために農家が作っていると思うし、多くの商品も同様であると思う。個々の取引は利益追求を原動力とする利己的行動であるが、経済全体は需要を最大限満たす利他的結果を示す。労働者の為(共産主義)、社会の為(社会主義)、世界の為(グローバリズム)、環境の為(再生可能エネルギ)、持続可能な未来の為(SDGs)など、利他をスローガンとする活動は必ず独裁的な利己を実現する。自由競争が利他的成果を示すことが、検索結果から外れているように感じる。

どうしてこうなった、と私は言いたい。

好景気は悪

好景気は悪

経済政策が迷走する原因は単純である。経済の正解が不明だからである。政策は、問題点の把握、向かうべき方向の確認、進む方向の修正の手順が必要である。正解と現状の差異を見つけ、その差異を修正する行動が政策であるが、正解は誰にも分らない。自然界の正解は勝者の行動であり、勝者は競争の結果であるから、正解は結果である。結局、政策は正解の予測を元に行われ、人間は未来予測が苦手である。

このように、経済政策は競争原理が一番であり、思想に基づく政策はうまくいかない。さらに、予測の元となる思想自体も間違いが多い。間違った思想から実行される政策が正解となる可能性は偶然である。

一例として、好景気がある。用語からも分かるように、企業や労働者にとって好景気は好ましい現象である。しかし、景気は中立であることが経済の必須あり、好景気も不景気も悪である。日銀の役割は景気の中立性の確保である。景気の中立が物価の安定となり、好景気も不景気も物価を不安定にする。日銀の役割は景気の中立確保であり、物価目標は政府の役割である。

日銀が劣化しているのか、あるいは国民を欺いているのか。日銀が物価目標を設定し、当然失敗している。プラザ合意後も予防的規制緩和を行い、好景気を誘発し、その後経済を崩壊させている。結果的には、破壊工作が実行されているように見える。

これまでの考察から、インフレは資本ストックの増加であり、インフレは国富の蓄積である。国富の蓄積には、消費を抑え、投資を増加させる必要がある。この時、総生産額は減少する可能性がある。デフレからインフレに転換するには、一時的な総生産額の低下を受け入れる必要がある。一人ひとりが今の贅沢を我慢し、子孫のための資本ストックを生産する必要がある。給付金を求める国民には難しい選択である。

水道と水力学

水道と水力学

水道は文明の根幹であり、すべてに優先して構築し保全する対象である。水道水には塩素が添加され、飲料の直前まで塩素濃度が維持されるようにシステムが構築されている。塩素が生物である人間に有害であることは確実であるが、細菌の繁殖を防止することで乳幼児の生存率を高め、人の寿命を延ばしていることも事実である。水道の本質は、毒をもって毒を制す、である。このような水道は人間の発明であり、人間が自然に優越した象徴である。

確かに、水道は人間の発明であり、自然の産物ではない。ところが、水道水を供給するための学問は水力学であり、こちらは自然現象を整理した自然の産物である。水道の発明と水力学の発見は対を成している。

社会を構成する構造は発明であり、社会を成立させる原理は発見である。このような発明と発見の関係には、例外が無いように感じる。例外が無いことの証明はできないが、発明と発見の分離は慣用句として荒唐無稽と表現される。一般的に、利用可能な発明には対応する自然法則の発見が付随している。

水道の本質、水道の構造、水道の原理、水道の説明は多面的になる。蛇口をひねると飲料水が出ることは、目的、発明、発見に分けて理解し、説明する必要がある。外国からの観光客には、水道水は飲んでも安全だと説明すれば良いが、水道の設計施工には、目的、発明、発見を理解する必要がある。

これは貨幣にも当てはまる。社会と係わり始めた子供には、一万円札は安全だと教えれば良い、お金は噓をつかないと教えても良い。しかし、働いて自活するにはもう少し詳しい知識が必要となる。社会人として必要な貨幣の知識は、収入と支出の均衡を保つことである。収入以上の支出ができないことを強制することが、貨幣の目的である。この貨幣の目的を理解すれば社会人として生活できる。さらに貨幣を管理するには、発明、発見を理解する必要がある。逆に言えば、貨幣の管理者以外は発明と発見を理解する必要はない。

ここで疑問が分散する、貨幣の発明、貨幣の発見、貨幣の管理者。貨幣は人工物なのだから発見は何だろうか、管理者とは通貨発行権のことだろうか。そもそも貨幣の目的も本当だろうか。

始めに貨幣の目的について。「貨幣の目的」、「お金の目的」と検索しても、何もヒットしない。私自身も「貨幣の目的」と書いたのは初めてである。しかし、日常の経験からは、お金が無いと買い物ができないし、これは平等なルールに見える。お金の目的は収入以上の買い物をできなくすること。お金の制約はこれ以外にない、誰もが共感できるだろう。仮説としては十分である。

それぞれの企業が生産した商品と同額のお金を支給すれば、社会全体でも生産額と購買限度額は一致し、経済は過不足なく完結する。企業は赤字の継続で淘汰されるので、商品価格以上のお金を支給することはできない。商品の消費においても、個人が収入の範囲で購入を制限されることで、社会全体での商品の過不足を防ぐことができる。個々の企業と個人が単純なルールを守ることで、社会全体の経済が成立するのであるから、お金は非常に優れた発明である。お金の目的は収入以上の消費を禁止することである。常識だけれども教科書に記載はなく、ここでの考察から得られた仮説である。

次にお金の発見について。お金の目的が仮説であるから、これ以降の考察も仮説であることに注意してほしい。発見とは発明に付随する自然法則である。商品生産量と商品消費量を一致させることがお金の目的であるから、ゼロサムとか保存則が対応する自然法則であろう。

次にお金の管理者について。お金の利点は、個々の企業と個人が個別にルールを守ることで、経済全体の均衡を維持できる点にある。ルールを守ることでルール違反の相互監視となる。法治国家の形式として、法律や警察が審判の役割をするが、プレーヤだけでもゲームの進行が可能である。即ちお金の管理者は不要である。企業や業界団体がそれぞれに貨幣を発行して、商品金額と発行金額を一致させれば良い。この場合、商品の販売に対し確実に貨幣を回収する必要がある。お金の発行者は販売時にお金を回収し、この回収したお金は確実に破棄しなければならない。この管理は厳密に実行する必要があるが、人の心情として、手にした貨幣を破棄することは難しい。そこでこの役割を銀行が一手に引き受けている。王様や政府がお金の管理をすると発行と回収の厳密性が損なわれ、経済は周期的に破綻すると予想できる。

現在は、お金の管理者は銀行であり、その役割は回収したお金を破棄することである。企業や政府がお金の発行と回収を行う場合、管理者は不要である。しかし、発行、回収、廃棄を厳密に管理することは人の性質として難しい。専任として銀行に委託している。

次にお金の発明について。お金の目的が商品生産と商品消費の均衡であるから、お金は商品量と対応すればなんでも良いことになる。実際歴史的には、貝、布、金属、紙などが利用されている。コンピュータによるデータ管理でも問題ないだろう。

お金の形式が多様である事実とお金の目的が商品生産と商品消費の均衡であることは整合性が取れており、仮説の有力な証拠である。

まとめ。発明には、目的、具体的な形式、基盤となる自然法則の発見が一体となっている。お金について、目的、発明、発見について考えると、商品生産と商品消費の均衡が目的であり、基盤となる自然法則は保存則であり、具体的な形式は貨幣と銀行預金である。

最後に。お金で利用される保存則は、無から正と負が同時生成し、同時消滅する、負の数を含む保存則である。実際の運用では、商品も貨幣も正の数であり、この部分がお金の議論に混乱を与えている。自然は負の数を利用しているが、人の思考は自然数であり、お金はこの差異を調和させる発明ともいえる。