お金にならないお金の話

お金は使うと無くなる、これを公理とする

どうして日本の賃金は上がらないのか

どうして日本の賃金は上がらないのか

これはニュース解説のタイトル。確かに誰もが知りたい疑問である。しかし、上がらない要因を考える前に、賃金とは何かと聞き返したい。どうして賃金がもらえるのか、疑問に感じる人はどれほど居るだろうか。私の場合、この疑問に辿り着くまでに4年を費やした。

日常生活を送るには実に多くの人工物が必要である。水道、電気、ガス、道路、商店、住宅、衣料、食料、すべて誰かの労働の産物である。反対に、生活で利用する非人工物すなわち自然物は空気だけである。景色を眺め、目に入るものを人工物と自然物に分類すると、空は自然、木々は人工、田畑、堤防、海岸、道路、街並みは人工、鳥は自然、人間の皮膚は自然、着衣は人工。このように、空と海と動物以外は人工物であり、人間は人工物に囲まれて生きており、労働の産物の中で生活している。例えると、お菓子の家を作り、お菓子の家の中で生活し、お菓子の家を削り取って生きている。

科学技術が発達し社会が豊かになることで、生活が楽になり労働時間も減少している。近い将来、人は働かなくても生きていけると楽観的に想像する。悲観的には、AIが労働を奪い、人間はすべて管理されると想像する。実際は、社会の豊かさはすべて労働の産物であり、豊かさの維持にも労働が必要である。豊かさは過去の労働の蓄積であり、将来の豊かさには現在の労働が必要である。現在の豊かさに満足し、豊かさの蓄積を止めてしまえば、簡単に社会は衰退する。

このような労働の成果である人工物を蓄積し、蓄積した人工物の一部を利用することで人間は社会を営んでいる。この人間社会の仕組みが経済である。経済では人工物の適切な蓄積と適切な分配が必要であり、それが生産と消費である。経済は生産と消費の2段階であり、両者を適切に調整する必要がある。ここに賃金が登場する。

お菓子の家で考えると、増築が生産であり、削り取ることが消費に相当する。削り取ってばかりではお菓子の家はぼろぼろになってしまう。削り取る以上に増築すれば家は大きくなるし、ちょうどバランスすれば家は同じ大きさを保つことになる。

経済は人工物を増やす生産と人工物を個人の所有物に変換する消費のバランスで成立している。経済を継続させるためには、消費量が生産量を超えないように管理する必要がある。生産量を記録し、記録に従って消費することで、経済は存続できるが、帳簿で管理することは現実的でない。そこで、帳簿の代わりに生産した人工物に値段を付け、同額の賃金を支給し、賃金の範囲内で消費を行うことで、消費が生産を上回ることを回避できる。

様々な人工物を生産するのであるから、値段の付け方に規則が必要である。値段を高くすれば賃金も高くなるのだから、好き勝手に値段を付ければ好き勝手に賃金を上げることができる。それでは人工物を維持することはできず、経済は崩壊する。生産では、既存の人工物と自然物を組み合わせ、新たな人工物を作り出す。すべての人工物には値段が付いているので、生産された人工物の原材料費は計算できる。そこで、生産された人工物の値段は原材料費の2倍と決め、値段から原材料費を差し引いた額を賃金とすることで、新たに作られた分だけを消費する経済が成立する。

最後の部分が分かりにくいと思うが、生産ではビスケットを2倍にして、半分だけを消費すると、ビスケットはいつまでもなくならない、これでお菓子の家はぼろぼろにならないし、経済は継続できる。

賃金はどれだけ原材料を利用したかで決まる。原材料の値段はどれだけ工場などの生産設備を利用したかで決まる。生産設備の利用金額は減価償却費で計算され、これは生産設備が建造された時の費用で決まる。生産設備の建造費は投資額でかるから、結局、賃金は過去の投資額で決まる。すなわち、投資額を増やすと時間差で賃金が増加する。日本の賃金が上がらないのは、投資額が増えないからである。

インフレの説明

インフレの説明

インフレをできるだけ難解に遠回りをして説明したい。経済がお金の流れならば、経済を知ることは、川の中から川の全体像を眺めることであり、とても困難な行いである。インフレも、できるだけ遠回りをした方が、全体像に近付けるのではないだろうか。

 

    インフレとは価値の増加である

 

これが終着点であり、簡素にインフレを説明すれば、価値の増加である。現時点でこの説明に賛同して頂くことは難しいと思うが、理解を得られる努力をしたい。経済学の入門書には、非常に近い表現として、「インフレとは物価の上昇」とある。インフレの定義のように感じるが、実際には物価の正体がまったくはっきりしない。物価が上昇するとはどのような現象なのか、物価とは上昇するものなのか、関係者全員が分かったふりをしている。日本は30年間デフレからの脱却を目指したが、誰も達成できなかった。デフレはインフレの逆現象であり、インフレが分かればデフレも分かる。30年間の失敗はデフレを理解していない証左であり、誰もがインフレを理解していないのである。あるいは、私だけが理解していない可能性もある。

物価を物(モノ)と価(価値)に分解すると、モノとは何か、価値とは何か、個別に考えることができる。インフレや物価は経済現象であるから、物とは経済的なモノであり、貨幣経済ではお金で買えるモノに限定できる。お金で買えるモノの一部かあるいはすべてかのどちらかである。モノを買うには売り手が必要であるから、誰かの持ち物である必要がある。すなわちモノとは所有物である可能性が考えられる。

それでは、所有とは何であるかを考えてみる。野生の猿が畑を荒らして困るとニュースになる。人間が畑を荒らせば窃盗であり所有権の侵害となるが、猿には適用されない。野生の猿には「所有権」も「所有権の侵害」もなく、所有の概念が無いと考えて良いだろう。幼い子供はコンビニのお菓子を勝手に食べてしまうことがある。大人であっても戦争相手の所有物を破壊することは許される。所有の概念は限定的な範囲で有効である。生れながらの固有の権利でないことは確実である。協力関係にある社会人の間に所有の概念が存在すると思われる。

社会の最小単位として、縄文の集落を想像し、所有の起源の仮説を構築する。縄文集落は20人で構成され、複数の集落のネットワークとして社会が成立していたと考えられている。20人の自給自足であるから、常に協力して生活していたと考える。生産活動の主力は食料調達であり、分業で様々な食材を調達し、分配したと考える。遺跡から分かる食の多様性や多様な道具から、分業であったことは確実である。分業とは分配を前提とした活動であり、このような経済を分配経済とここで定義する。分配経済は、自然から獲得した食料を集落に取り込む生産と、生産された共有物の分配の2段階で構成され、分配された食料は各個人のものである。自然から集落に取り込み共有物とし、これを分配すると、所有物が発生する。この2段階の経済活動を生産と消費と考えると、現在の日本経済も分配経済と見ることができる。現在の生産の主体は集落ではなく企業であり、企業が生産した商品は企業のモノであり個人に帰属しない。商品は企業の所有物であると同時に日本人の共有物であり、消費によって個人の所有物となる。分配経済による所有物は、20人の集落でも発生することから、国家、銀行、貨幣よりも先行して存在し、所有は人間にとって原初的な権利であり、同時に生れながらに存在する権利ではない。これは現在の所有権の位置付けと一致している。一致しない点は、企業が株主の所有物であり日本全体の共有物とみなされないことである。この部分はさらに考える必要がある。仮説を整理すると、縄文集落で存在したと想定される分業生産と分配からなる経済、すなわち分配経済によって個人のモノとして社会的に承認されることが、所有の起源である。これは現在の貨幣経済でも、経済活動を生産と消費の2段階と考えることで、所有を説明することができる。

分配経済の考察から、企業の所有と個人の所有は異なる可能性が示された。個人の所有権は、利用、譲渡、売却、破棄が認められる強力な権利である。これに対し企業の所有権は限定的である。生産の原料としての利用と売却による利益の追求は許されるが、譲渡や破棄は認められない。会社の所有物を利益追求以外に利用することは背任とされる。企業の所有権は専売権に見える。

ここで、個人の所有物と企業の所有物は異なるモノと考える。インフレの説明のために物価を取り出し、物価をモノと価値に分解し、モノの正体の候補として所有物に着目した結果、所有物は2種類存在する可能性が示された。インフレでは生活に必要なお金が増加する。生活に必要なお金の大部分は企業の提供する商品の購入に費やすのであるから、インフレと関連するモノは企業の所有物である。購入済みの個人の所有物は生活費と関連しない。物価の対象となるモノとは企業の所有物である。

物価の内モノは企業の所有物を示すことが分かった。そうすると価値は値段である。合わせると、物価とは企業の物的資産価格であり、企業の固定資産額となる。経済を生産と消費の2段階であると考えると、生産したモノの内、消費したモノが個人の所有物となり、消費されずに残ったものが物価となる。企業でなく政府に残るモノとしてインフラがあり、これを含めると、物価は資本ストックと一致する。

インフレを物価の上昇と表現する場合、物価は実際に売買された商品の価格を示しているようにみえる。ここで示したように物価が資本ストックを示す場合は、「インフレは物価の増加」と表現することが適切である。物価はフローではなくストックを示すとも言える。インフレは資本ストックの増加であり、インフレは価値の増加である。

整理すると、①経済は生産と消費の2段階で構成され、本質は生産物の分配である。②経済価値は生産で社会の共有物としてストックされ、消費で個人の所有物となる。③物価とは経済価値のストック量を示し、資本ストックと一致する。④インフレは資本ストックの増加である。

遠回りした結果、所有の起源が分配経済にあること、物価がストックであることを示すことができた。難解であろうか。最後に、デフレの解消を考える。インフレが物価の上昇ならば、物価はフローであり、消費促進の補助金を供給する。インフレが価値の増加ならば、物価はストックであり、企業の投資と家計の貯蓄に対する補助金を供給し、インフラ整備も増大させる。物価がフローであるかストックであるか、デフレ対策は正反対なほど大きく異なる。

分解者

分解者

生物の分類として、生産者、消費者、分解者と区分する方法がある。この分類の主題は有機物であり、目的語が明確である。有機物を生産する者、有機物を消費する者、有機物を分解する者、と解釈できる。とても明確な概念である。生産・消費・分解の3つが揃うことでそれぞれの意味が明確となり、無からモノを生み出すことが生産、生産されたモノを無に戻すことが分解、モノを利用することが消費である。消費者とは、有機物を生産もせず、分解もせず、利用する生物のことを示す。消費者の定義には、生産者と分解者の両者が必要となる。消費の定義も、モノを分解することなく利用すること、となる。

これに対し、日常用語の消費は使って無くすことである。生物分類の消費者の消費は使うことに限定されるが、日常用語の消費は使ってさらに無くすことを意味する。この場合、消費の対義語は生産であり、分解は不要となる。経済用語はこの生産と消費の対を利用するが、区分は異なる。天然資源から価値を生産することを「第一次産業」と呼び、生産された価値を利用することを「第二次産業」「第三次産業」と呼び、価値を個人が取得することを消費と呼ぶ。企業が生産物を購入すると生産で、個人が生産物を購入すると消費となる。個人が購入して、使わずに保管しても消費であり、経済の消費と日常の消費は異なる。

一体どうなっているのか。推測であるが、日常用語は個人の主観的な視点であり、利用したい目的物を使って無くすことが消費であり、対義語は生産ではなく、補充である。これに対し、モノを主体にモノの変化を記述すると、誕生・変成・消滅と区分する必要がある。客観的にモノを観察する場合は3つの区分が必要であり、主観的な観察では、集約され2つの区分となる。日常用語では、誕生が生産、変成と消滅をまとめて消費である。経済用語では、誕生と変成をまとめて生産、消滅が消費である。この意味で、生物学は客観的であるがゆえに用語が日常と乖離している。経済学は主観的で用語は分かり易いが、それゆえに概念が混乱している。よって、経済学に、生産者・消費者・分解者の区分を導入することで、モノ(付加価値)を主題とした客観的な視点を導入することができる。

第一次産業は付加価値の生産者、第二次産業第三次産業は付加価値の消費者、消費者は付加価値の分解者と変換される。しかし、第二次産業第三次産業は付加価値を消費するのではなく、増加させることから、育成者が良い。よって、経済は付加価値の、生産者、育成者、分解者で構成される。生物学も消費者を捨てて育成者とすれば統一が得られる。誕生・変成・消滅に対して、生産・育成・分解である。

この話しには落ちがある。平成24年度の中学理科教科書では、分解者は消費者の一部とされ、生物区分は生産者と消費者に集約された。中学の生物は客観的視点を捨てた。日常に占める経済の割合が拡大し、自然科学が圧迫される象徴なのだろう。次に自然科学が重用される時代はいつになるだろうか。

過去に進むお金

過去に進むお金

時をかけるお金、時間を逆行するお金、循環しないお金、タイトルばかり考えて、なかなか内容の整理が進まない。お金が流れであることを示す表現は沢山見つかる。お金を循環させることで経済は活性化する。お金の流れを追うことで真犯人を探る。最近金回りが良い。経済用語にはストックとフローがある。流体シミュレーションでも流入と流出の差が蓄積であり、ストックとフローは流体に共通する基本原理である。お金が流体であるとして、お金の流れなのか、お金の循環なのか、どちらなのであろうか。結論は既にタイトルに示したが、考察を進める。

スープを混ぜる時、スープをスプーンでかき回すと表現するが、スープをスプーンで流すとは表現しない。流れとは、高いところから低いところへの流体の一方通行の移動を示す。循環とは元の場所に戻る移動を示す。循環は流れの特殊な状態である。エッシャーの滝は、滝を流れ落ちた水が川を流れていくと再び滝の上に戻る、だまし絵である。自然現象では、流れが循環しないことを逆説的に表現している。循環と流れを区別無く用いることは、現象をあいまいにし、混乱や誤解を与える。

実際に観察できる現象を考えると、賃金が支給されるとお金は懐に流入し、欲しいものを買うことで、あるいは外食をすることでお金は懐から流出する。流入と流出の差が貯蓄であるから、確かにお金は流体としての保存則を満たしている。それでは循環はどうであろうか。銀行のATMから出てくる一万円札は、以前は誰かの所有するお札であった。これはお札の再利用であってお金の流れではない。自分の通帳の預金をお札に変換したのである。確かに、一万円札は再利用により循環しているが、お札の循環とお金の循環は違う。お札の循環を追跡し、お金の流れを考える。

賃金は会社から個人の銀行口座に入金される、これをATMで預金から一万円札に変換する。お店でビールと一万円札を交換する。一万円札はお釣りとして客に渡されることは無いので、売上として店の銀行口座に入金される。ここで、一万円札は預金に変換され、お金としての役割を終了する。次に再びATMから出てくる時に、お金としての一万円札に変換されるが、お金の流れの連続性は無い。懐を中心に整理すると、お金は形式を預金とお札で変換しながら、会社、個人、お店と流れ、流れは終了する。

お店のお金は仕入れで企業に流れ、いくつかの企業を渡り、賃金として個人に流れる。また、お店の従業員の賃金としても個人に流れる。どちらも先ほどビールを買った人とは別人であり、単純な循環ではない。お金の流れは、途切れ途切れの流れの集まりであり、循環のようでもあるが、元の場所に戻る循環とは異なる。

ビールを買った人の行動を考えると、商品であるビールにお金を払うのであり、従業員の賃金を払うのではない。商品とお金を交換するのであるから、お金が流れであれば商品も流れである。商品は工場で作られ、商店に納入され、販売によって個人に流れる。お金は商品と反対方向に流れ、購入者、商店、工場へと流れる必要がある。賃金はどうか、賃金は商品の売上げの一部を受取るのであるから、お金の流れは、購入者、商店、工場、賃金である。流れとは時間的な現象であり、お金の流れは過去に進む必要がある。借金も将来の収入の前借りと考えれば、未来から受取るお金であり、未来から現在へと過去に進む流れである。

お金は商品あるいは商品の生産に対して払うのであるから、お金は過去に流れる必要がある。ところが、当然であるが、一万円札は時間に沿って流れ、時間を逆行することは無い。経済の実務では過去に進むお金を表現する仕組みがある。ひとつは運転資金の借金であり、もうひとつは伝票である。どちらも近い将来の収入を事前に受け取ったと仮定して、商品の流通を行うシステムである。未来から流れてくるお金を仮想したシステムであり、過去に進むお金を表現している。

お金は過去に進み、貨幣は循環する。これはポエムでなく、経済の観測結果である。観測結果であるから、経済の修正を求めるものではない。しかし、経済活動の認識は変わるかもしれない。代金の支払いは、過去の生産に対して、過去の蓄積に対しての対価である。賃金の受取りは、未来への奉仕の対価であり、現在の企業への奉仕の対価ではない。

もうひとつ、難解であると思うが、商品の生産では符号がプラスの商品付加価値と符号がマイナスの賃金が対で生成されることで、保存則を満たす。そして、マイナスの賃金が時間を逆行することで、プラスのお金に見える。賃金を貯蓄として残す場合はマイナスのお金として残す必要があり、この符号変換を金利でおこなう。賃金を貯蓄すると貯蓄した人のお金は増えるが、社会全体としては金利で借金を増加させ、保存則を守る必要がある。

3Dプリンタは進化するか

3Dプリンタは進化するか

3Dプリンタとは、コンピュータで作成された3次元データを元に断面形状を積層し、立体を造形する機器である。コンピュータ上の立体を現実の物体へと変換する装置とも言えるが、コンピュータ上の立体が現実の物体を模倣したものであれば、現実の物体をコピーする装置とも言える。ちょうど、プリンタとコピー機が一体化した複合機と同じである。3Dプリンタは物体のコピー機と考えることができる。但し、利用できる材料が限られるので、3Dプリンタで造られた物体のコピーしかできない。残念ながら、3Dプリンタは現実の物体をコピーすることは出来ない。それならば、すべての物体が3Dプリンタで造られた世界を構築すれば、3Dプリンタは万能のコピー機となる。

限定された材料で構築され、3Dプリンタが万能コピー機である世界を考える。万能コピー機が適切に動くには、万能コピー機本体と機器を作動させるプログラム、そしてコピー元のデータが必要である。ハード、ソフト、データ、この3点が必要であり、これはコンピュータ上の作画と同じであり、コンピュータ技術の延長線上に万能コピー機の世界は存在する。

万能コピー機の世界で最初に作成する物体は、万能コピー機自身である。ハード、ソフト、データすべてが揃うのは万能コピー機だけである。万能コピー機は複雑な機器であり多数の部品から構成されるが、全てのデータが揃っており、適切な手順でプリントすることで組み上げることができる。自身とは異なるデータを入手すれば、自身以外の物体のコピーも可能であるが、入手方法がなければ、ひたすら自身をコピーすることとなる。

もう皆まで言う必要はないが、この万能コピー機は材料が尽きるまでひたすら自身の複製を繰り返し、それは倍々に増殖する。この複製は、ハード、ソフト、データを一括して行うが、どうしてもエラーが発生する。エラーは偶然の結果であり、ハード、ソフト、データのどこに発生するかは確率的で確定的ではない。もし、エラーによって不具合が生じれば、万能コピー機は壊れて止まる。もし、エラーによって複製速度が向上すれば、オリジナルよりも早く増殖しオリジナルを凌駕する。エラーの度に万能コピー機は多様化し、競争社会となる。競争社会の生存戦略は、頑丈で壊れないかどんどん増えるかの選択となる。あるいは、この組み合わせの最適点の追求である。

優秀なコピー機はデータを忠実にプリントするが、自身をコピーする機能を持たない。自身をコピーして初めて万能と呼べる。万能コピー機を発明し、そのスイッチをオンにすれば、後はどんどん増殖し、多様性を実現する。このような自発的な多様性の発展は進化である。3Dプリンタが進化するためには自身の複製が必要であり、自身の複製は必然的に進化を伴う、と結論付けられる。

もう皆まで述べたが、細胞は有機物を材料とする万能コピー器である。万能コピー器は、ハード、ソフト、データの3要素で成立する。現在、ゲノム解析としてDNA解読が進んでいるのはデータの部分である。ソフトに相当する部分は未解読でジャンクと呼んでいるが、データよりもソフトのほうが重要であることは明らかである。万能コピー器に対して我々はあまりにも無知である。この万能コピー器が繁栄するためには、環境に適合した進化をする必要がある。環境に適合するためには、すでに繁栄している個体を模倣する方法がある。偶然のエラーに期待するよりも、改善には模倣が優れている。我々の細胞もこの模倣機能を持っている可能性がある。もし、模倣機能があるとすれば、細胞間での情報伝達がエキソソームであり、個体間の情報伝達がウイルスである。最後に、万能コピー器が複製を繰り返すのは、元データが自身のデータだけだからである。もし、外部からデータを送り込めば、ちゃんと外部データを使いプリントする。大腸菌では十分な実績があり、21世紀は人間の細胞を3Dプリンタとして利用することになる。私は反対だが、人間の好奇心は底なしである。

お金は整数

お金は整数

数学が嫌いな人は多いと思うが、誰もが知っている整数も意外とやっかいな概念である。日常使う数字は自然数である。りんごが3個とみかんが5個、本が3冊、千円札が6枚、ものを数える場合は自然数を使う。「1万円札をゼロ枚持っている」ではなく、「1万円札を持っていない」と表現する。ゼロは自然数ではない。温度はマイナス18度、氷点下3度のようにマイナス表記をする。温度は状態を示す特性値(プロパティ、パラメータ)であり、数量を示す値でないため、プラスとマイナスが連続しても違和感が無い。しかし、温度は小数点もあるので整数ではなく実数である。このように、日常で整数を使う用途は思いつかない。

マージャンで持ち点を数える時、持ち点が無くなると連続的にマイナス点とすれば、整数である。しかし、持ち点(点棒)が無くなった時点でゲーム終了とすれば、自然数である。ギャンブルは手持ちがなくなった時点で終了する、これも自然数である。

整数は、日常的な用途がなく、数学上の概念であることがわかる。お金についても、貯金が50万円あり、ローンが100万円ある、と表現する。合算してマイナス50万円持っているとは表現しない。ところが、銀行は違う。銀行預金はプラスであり、貸付金はマイナスであり、貯金と借金は整数として連続的に取り扱っているように見える。あなたが銀行に100万円預けたとき、1万円札が100枚保管されるのではない、あなたの預金残高が100万円と記録されるのである。これは、あなたのパラメータ「預金残高」が100万円であることを示す整数なのである。

お金が整数だと仮定すると、お金の解釈が整理され、銀行の預金と貸付金がお金の本体であることになる。お金は1枚、2枚と数える数量ではなく、人や企業、組織、物などに付属する特性値(プロパティ、パラメータ)となる。この特性値を集計し、合計がゼロであることを示したものが貸借対照表になる。貸借対照表が、お金の本体であり、お金の全てと解釈できる。

紙幣は自然数であり、銀行預金は整数である。整数は、数学上の概念であり、日常的な感覚で理解することは難しい。同様に、銀行預金がお金の本体であると理解することは難しい。また、貸借対照表がお金であることを理解することも難しい。難しいが、経済が生物階層から独立した階層であることを理解するために、重要な要素である。

経済が独立した階層であることは証明されていない。経済階層の存在を主張する人も少ないかもしれない。しかし、現実の制度や行政は、経済が独立階層であることを示している。赤字国債は生物活動の労働と無関係である、貸借対照表も自然と無関係である。減価償却経理上の整合性を認めるが、自然現象の損耗だと考えると混乱する。経済運営、金勘定を見れば、経済が独立階層であることは明白である。

一方、人間は自然の一部であり、人間が経済を利用するのであり、人間が経済に利用されるのではない。経済には人間の労働が不可欠であり、経済は人間の活動の一部である。よって経済は自然の一部である。このように、経済が独立した階層である必要は無い。もし、経済階層が独立した保存則を持つならば、経済的価値は経済階層で生まれ、自然の一部である労働は経済的価値と関連性がなくなる。これは、不条理である。

お金は整数、これを認めることは危険であるが、考察はおもしろい。

残留中和抗体

残留中和抗体

日本のコロナウイルス感染の変動から、ウイルスは8週間の感染拡大のあと収束する様子を観察した。これは、世界的に観察され、2ヶ月周期説、120日周期説(2ヶ月上昇2ヶ月下降)と呼ばれている。ウイルスは数ヶ月の拡大のあと収束するのは常識である、と語る学者も居る。しかし、防疫政策で周期説が議論されることは無い。誰が見ても周期性を感じるが、学問として議論されることはないだろう。

防疫政策とは、人間の行動によって感染を制御できることを前提としている。ウイルスの都合で感染周期が決まるのならば、人間の対応は嵐が過ぎるのを待つしかない。それならば、予防に加え、被害の予測と対策に重点を置けば良いと考えるだろうが、問題はもっと深くにある。

コロナウイルスの感染経路は飛沫感染接触感染か、議論が収束しない。どちらも説得力があり、どちらも説明できない例外現象がある。議論は白熱し、対策案は多岐に渡り、対策は拡大する。関係者は誰もが利益を得る。真理の追究は停滞し、感染対策事業が既得権益として定着する。専門家は経済原理に絡め取られ、学会は繁栄するが、真理にたどり着けなくなる。感染の本質が感染経路以外の因子である可能性もあるが、もはや感染学の視点からウイルスの自主性を観察することは難しい。

問題の深刻さが分かるだろうか。感染学とは、防疫を目的とする学問であり、評価基準も感染の抑制である。今までの研究成果は、人間の与える刺激に対するウイルスの反応である。ウイルスの自主的行動は記録されていない。周期説を受け入れるには、感染学の全てを見直す必要がある。周期説のようなウイルスの自主的行動の解明には、医学と距離を置き、視点を変えた研究が必要であろう。

ウイルスに感染すると体内でウイルスが増加し、その後で中和抗体が生産される。中和抗体の増加が始まると体内のウイルス量は減少していく。ウイルスが減少しても中和抗体の増加は継続し、ウイルスが検出されなくても中和抗体量は維持される。ここで、中和抗体量が維持される目的を考察する。現在、我々は抗菌物質を薬として服用する。この時、病原菌が死滅する期間の服用を求められる。不完全な殺菌では、菌の変異を促し、耐性菌の反撃を受ける可能性が有るからである。ウイルスも同様であると考えると、細胞内に身を潜めているウイルスを殲滅する為に、中和抗体の血中濃度を維持していると類推できる。中和抗体の主目的は、ウイルスの進入を防ぐことではなく、細胞内の残留ウイルスの殲滅であると推論できる。

すると、抗菌物質とワクチンの原理が真逆であることに気付く。抗菌物質を乱用すると耐性菌が現れるため、健康時は使用せず、病気の時に集中的に投与する。ワクチンは健康時に抗体量を維持する為に利用し、発症時には接種しない。これは、中和抗体の主任務がウイルスの進入防御であると考えるからである。中和抗体の主任務は、残存ウイルスの殲滅なのか、進入ウイルスの防御なのか。ワクチン産業が発達した現在、この疑問を追及することは難しい。

ワクチン接種の議論を聞くと、中和抗体量と感染確率が相関するような印象を受ける。しかし、そのような関係は確認されていない。新種のウイルスに対する中和抗体は、誰もが一様に持っていない。それでも感染する人と感染しない人がいる。この事実から、中和抗体量と感染確率が相関しないことは明らかである。ワクチンの評価を中和抗体量で行うことから見直す必要が有る。

ルールを調整してゲームを有利に運ぶ、この手法に日本人は弱い。新型ワクチンが薬にも毒にもならないことを、今は願うことしかできない。経済は独立した階層を形成し、独立した保存則を持つ。自然現象を経済に利用することは可能であるが、経済原理で自然を制御することはできない。遠回りだが、当たり前のことを知る必要がある。